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撮影裏話/辰/その1 [辰]

撮影を無事終了し、アトリエまで帰って、さあ現像へ。。。と思ったら。。。撮影悲劇がまた起きてしまった。今回はなんと。。。フイルムがないのだ!!3本とったはずのフイルムが2本しかない。。。カメラケースにも当日の持ち物のなかにも、どこにもない。。。。
「まさか、現場に忘れた。。。?」
いや〜な予感が。。。いや、予感を通り越して実感がした。
「滝壺の辺りって、けっこう湿ってたよね」
モデルが横からぼそっとつぶやく。下手をすれば撮り直し。。。

「。。。。。」

気まず〜いムードが流れる

次の日、我々はまた片道100キロ、往復200キロの一般道ドライブを決行することになったのである。

さて、ところで赤目の滝の散策コースは、オオサンショウウオセンターのある下流から上流へ、巌窟滝が最終地点で、そこでUターンして戻るというのが一般的であるが、道は巌窟滝よりまだ上へ続いている。滝からは逸れるのだが、巌窟滝のあとの山道は平坦で、10分程あるくとバス停のある国道へ出るのだ。さすがに私たちも2日続けての滝フルコース散策はしんどいものがあったので、この山中のバス停付近に車をおいて、逆コースから琵琶滝に行くことにした。琵琶滝は巌窟滝より一つ手前なだけなので、距離的にはずっと近いのだが、なにしろ散策コースからは外れているため、ひっそりと静かで狭い山道は行き交う人もなく、女二人連れというのはちょっと怖かったりもしたが、琵琶滝の水辺の落ち葉の上にころんとあったフィルムを見つけた時には、怖さも吹っ飛んだ。

「あったああああああああああ」

まさに歓声は滝を昇ったのである。
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撮影・赤目四十八滝 [辰]

新たなロケ地は私のお膝元である三重県名張市の赤目四十八滝である。お膝元と行っても、私の出身が名張市であるのではない。自称忍者研究家の私は、中学の頃から 赤目近辺に出没しきりで、「庭のようなもの」と自負していたからである。赤目の滝は役行者が開山したといういわれのある、山岳宗教の聖地である。約4キロの渓谷沿いに形状の異なる滝が連なる様は見事で、日本の滝100選にも入っている。

天然記念物のオオサンショウウオセンターのある入り口から約1時間20分程歩いたところに「琵琶滝」という滝がある。形状が楽器の琵琶に似ていることからこの名がついた。琵琶は龍の守護する天に飛翔する天女たちの奏する楽器の中でももっともポピュラーなものである。高さは約10メートル、滝壺の前に立ってちょうどフレームに収まる。滝を昇る鯉へのBGMは天女の奏でる琵琶の音。。。

衣装、機材一式もっての1時間20分の山道は結構きついが、撮影のためならば何のその。12月に入っていたので、滝のながれる渓谷の気温は。。。まあそれなりであったが、このマイナスイオンの清々しさ。。。カメラマンは一人悦にいるのであった。
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ロケ地探し/熊野那智の滝 [辰]

鯉が滝を昇ると龍になるという。(鯉ではなく、鮭である説もあるらしい)
「鯉の滝昇り」は特に掛け軸に描かれているものとして印象に強い。
どうせ昇るなら雄大にいこうと、一路、那智の滝へ向かう。高さ133メートル。滝そのものが飛瀧神社のご神体である。関西にこれ以上の絶好のロケーションがあろうか。

しかし、いざ、瀧に到着してみると。。。。さすが、屈指のご神体である。高い、高すぎる、フレームに収まらない。収まるまで引きにすると瀧の迫力が出ない。私が撮りたいのは水しぶきかからんばかりの龍の姿である。

そもそも滝に近寄れない。滝壺の手前には鳥居がたち、しめ縄が張られて結界となっている。それはそうか、、、なんたってご神体なんだから。。。仮に滝壺まで近寄れたとしても、滝の下部は岩肌に沿って流れの幅が広がっているため、上部のように一気に流れ落ちる・・・という風にはいかないだろう。近寄ってアップにしたら、滝というよりも岩沿いの急流のように見えてしまうに違いない。

ありがたいご神体を拝しているのに、ぶつぶつと不満をタレつつ、飛瀧神社にはちゃんとお参りし、次の良いロケ地が見つかりますよう、お願いをしたのであった。
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衣装コンセプト [辰]

よく水辺などに祭られている像で、龍が剣に巻き付き、その先を飲み込もうと構えているものがある。この像は倶利伽藍不動と呼ばれ、不動明王の件が変じたものであるという。像だけでなく、戦国大名にも意匠として好まれ、刀や脇差しに彫り込まれていたりする。水神である龍と、倶利伽藍龍が今回の意匠のアイデアベースである。鱗はもちろん剣先型。
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龍の子太郎 [辰]

私の印象に残る龍のイメージは、松谷みよ子作の「龍の子太郎」というお話に出て来る龍である。

村人のために用意したイワナを、身重で何も口にできなかった娘が、ついつい食べてしまい、3匹食べたところで龍の姿に変えられてしまうというお話。産み落とされた赤ん坊の太郎は娘の母親に預けられ、そのとき手にしていた水晶のような玉をなめて成長する。ところが、玉を全部なめてしまった太郎は他には何も食べようとはせず、困ったばあさまは龍に姿のかわった娘の住んでいる山奥に太郎をつれて相談に行く。その水晶の玉は実は母親の目玉だった。もう片方も太郎に与え、両目の見えなくなった母親はばあさまに太郎のことをくれぐれも頼み、姿を消すのだった。。。お話はここから太郎の成長、そしてあやという娘との出会い、鬼との戦いと進んで行くのだが。。。龍の話に焦点を絞るとして。。。表紙はカラーだったが、中は白黒の挿絵で、ばあさまの背丈の倍以上もある龍が哀しそうに目をさしだしている挿絵があったような気がする。私がこのお話をうろ覚えながら、ウン十年経った今も思い出すことが出来るのは、幼心にもよほど印象に残ったからだろう。

さて、体長30センチくらいの魚を想像していただきたい。お正月の鯛の塩焼きなどが好例である。その位の魚の目の大きさは直径約2センチ。ナマ魚の目はどろんと半透明で眼球は黒いが、これを焼くと、眼球が白くなるのをご存知だろうか? 小さい頃、私はこの魚の目を食べるのが好きであった。眼球部分をぐりっとえぐって塩味の効いたゼリー状の周りを食べると、最後に白目の部分が残る。この白い部分は表面だけであって、中心には固い玉がある。固いし、味もないが、舌でべろべろとしている間に、周りの白部分がきれいにとれて半透明のプラスチック玉のようになるのだ。

この玉を見るたびに、小さな私は「龍の子太郎のお母さんの目ってこれの大きい感じかなあ」と思っていたのである。理科の授業で目の構造に「水晶体」というものがあることから、龍の目・水晶体・目をなめるあたりがごっちゃになって、そのような思考回路になってたのかもしれない。ちなみに目は煮魚ても結果は白くなるが、煮魚だと目を食べる時に煮汁と混ざってあまり食感がよろしくない。焼いた時の方が適度に塩味が効いてさっぱりと良かったような気がする。
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余談: 龍の子太郎がお母さんの龍に乗って飛ぶシーンがあるが、日本昔話のおオープニングに登場する龍と子どもは何か関連があるのだろうか?

逆鱗に触れる [辰]

西洋で退治される龍も、東洋では神である。龍退治の話は日本にもないではないが、だいたいにおいては人々は降雨祈願のお供えをすることはあっても、武器をもって対峙することはまれである。なぜって。下手に手をだして逆鱗にふれるのを恐れるからである。

逆鱗というのは龍の身体に81枚あると言われる鱗(ウロコ)の、喉にある逆さまの方向をむいた一枚のことである。普段は穏やかな龍でも、この逆さになった鱗に触れられるのを極度に嫌い、触れたが最後、猛烈な怒りの対象となってしまうのである。

絵に見る龍の鱗は魚のように波模様が多いが、私が龍を作る時は、剣先のように尖った鱗にすることが多い。、龍と同じく、神聖なものとされる日本の刀を彷彿とさせるようだから。エッジが丸いよりも、尖っていた方がダメージが強そうだし。。。といっても、私自身が逆鱗に触れるような場面には決して遭遇したくない。


八岐大蛇は龍か蛇か [辰]

八岐大蛇という化け物退治のお話がある。対峙するのはスサノオ命である。
一つの胴体に八つの頭、八つの尾をもつという文字通り、化け物である。大蛇と書くから蛇なんだろうと思っていたが、スサノオの八岐大蛇退治の錦絵や版画などを見ると、蛇の頭に耳が生えているように描かれたものが少なからずある。逆に言えば龍を簡略化したような姿である。

八岐大蛇は龍か蛇か?
もし龍であれば、これは龍を聖なるものと崇める日本での貴重な龍退治の一例である。

先に龍は9つの動物の集合体だと描いたが、別説がある。

「海千山千」という言葉がある。抜け目のない老獪な人物を指す言葉である。
海に住む蛇が千年修行を積んでミヅチ(ウロコ、四肢のある蛇、角なし)になり、ミズチが山でさらに千年修行を積むと竜になることが語源であるという。

ということは、蛇頭に耳が生えた八岐大蛇は蛇が龍となる修業中の姿か?心根が悪かったので、化け物化してしまったとか。

八岐大蛇は単に化け物蛇の話ではなく、氾濫する河川のたとえであるとか、大蛇のほおずきのように赤い目は産鉄民族によるタタラの炎の象徴であるとか、いろいろな見方をされている。退治された大蛇の身体から草薙剣(天叢雲剣)が出てきたことから、鉄の関わる話に間違いはないだろう。

さて、ともかくも蛇は海、山でともに千年、あわせて二千年の修行をして龍になる。
奇しくも西暦2000年は辰年である。そして2001年は再生のシンボルである巳年から始まる。偶然というにはあまりにもハマった一致である。

東洋の龍、西洋の龍 [辰]

日本をはじめ、韓国でも中国でも龍は聖獣である。仏教においては仏法の守護神であり、雲、水を司る神様である(八大竜王など)。アジアでは一般的に龍は聖なるものの象徴であるが、西洋の龍/ドラゴンとなるとニュアンスが異なって来る。鬼のところで少し書いたけれども、一神教において、異形のものは悪魔の分類にいれられる。ドラゴンも例外ではなく、勇者や天使に退治されてしまう。岩窟の奥などで宝箱を守っている、ドラゴン退治に行く勇者の物語。私も数読んだわけではないから詳しく知らないけれども、宝石の持ち主が龍なら、この龍が人間に悪さをしないかぎり、完全な加害者はその勇者じゃないのと、感想をもったことがあるような気がする。探し出して殺した上にお宝頂戴なんて。

原因の一端は、そのルーツにあるようである。東洋の龍は人間が強い武器を持つ動物の集合体としての側面があるが、西洋のドラゴンにはサラマンダーのイメージがちらちらと見える。サラマンダーというのはイギリスを除く西ヨーロッパに広く生息するイモリの一種である。普通は20センチ前後、大きければ30センチにもなり、黒地に鮮やかなオレンジや赤の斑点や縞模様のある。日本人感覚から言えば、イモリよりはオオサンショウウオに近い。グロテスクな外見に加え、毒性を持つとなれば、当然悪の領域に入れられる。体液が多く、火の中に入れても、すぐ燃えることなく、這い出してくるために、火を沈める能力があるとされ、また毒を発射する(ファイヤー)ことから火との関連が強い。どうやらこのサラマンダーの変化系が西洋の龍であるようだ。直接被害のあっただろう毒性を持つ動物がモデルになっているから、退治されてしまう対象になってしまったの。。。かな。

創造の動物だけに、世界の龍の比較論はそれぞれの民族の風俗、習慣、感性の出る、面白そうな課題である。いずれご縁があれば少しくわしく調べてみたいと思う。
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これは「エリマキトカゲ」の衣装。緑のサラマンダーに見えないこともない?

タグ:バレエ衣装

2002 ワールドカップ 日韓の龍 [辰]

2002年に行われたサッカーのワールドカップは、日本と韓国という初の2カ国共催のワールドカップであった。大会のスポンサーであるアディダスが、「スポーツだけではなく、文化も巻き込んだ」、「アディダス・アートフィーバー」というイベントを開催、そのイベントに参加するご縁があった。
「サッカーに関連したもの」ということで、衣装畑の私は何を作ったらいいかと考えた結果、日本列島と朝鮮半島を龍に見立て、2匹の龍が火花を散らすモチーフの打ち掛けを製作することにした。日本の龍は着物の素材で、韓国の龍は色で表現した。

「打ち掛け」という、着用にも観賞用にもなる日本の誇るべき衣装は、イベントを見に来られる外国の観客にもアピール性があると思ったからである。打ち掛けの下地になる帯地は、京都・西陣での特注品である。黒の絹地に、黒漆の箔で、スポンサー・アディダスのロゴが織り込まれている。一瞬、目立たないような感じで、でも主張する、みたいな、他の例をあげると男物の羽織裏のような「知っている人は知っている」的日本の意匠間隔が、私は大好きなのである。

このイベントは東京、横浜、大阪、名古屋、福岡の各都市を巡回した。最後にオークションが行われ、この作品を落札したのは、日本チームの監督、フィリップ・トルシェ氏だった。現在この衣装はどこにあるのだろう。
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辰・竜/龍のイメージ [辰]

1.龍の子太郎
1.鯉の滝登り
1.2002 ワールドカップ

人間は弱い。一人で草原に放り出されたら、野生の動物と素手で戦えるような生まれながらの武器は何も持っていない。

狩猟時代の人間は、キバや角という武器をもつ動物に対して、恐れるとともに畏敬の念を抱いてきた。猛獣を倒した勇者は、その強さにあやかれるよう、毛皮を着用したり、キバや骨で作った装飾物を身につけたりした。

龍とは、人間が考えた、最上級の動物の強さの結晶体である。
目は鬼、耳は牛、角は鹿、頭はラクダ、うなじは蛇、腹はミヅチ(想像上の大蛇)、背は魚、手のひらは虎、爪は鷹という、9パーツの合体動物が龍である。

「鳥のように飛べたらいいな」という願望は、イカロスの試みから現在に至り、飛行機を生み出した。ちなみに上記の龍に羽のパーツはないが、龍はしっかり空も飛べるのである。龍にはさまざまな種族がおり、羽のついた龍もいる。種族については、書き始めると本何冊分にもなりそうなので、詳しく知りたい方はオススメ図書へ。

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