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撮影2日目/午 [午]

2日目の晩、宮崎から帰って考えた。干支の写真を撮り始めて5年目だが、毎年2日ずつ現地でとるのが恒例のようにさえなっている。このたびは1日でいいのか。。。撮り直しにくるには阿蘇はあまりに遠い。。。ここはやはり。。。ということで撮影2度目を結構することにする。自然の光と風が相手なので、いつ良いショットが撮れるかは、文字通り神頼みなのである。前回は昼過ぎの撮影だったため、2度目はもう一度草千里で、朝の光で撮ることにする。普段からの行いが良いのか、天気は3日とも快晴である。

3日目の朝、8時にホテルを出る。草千里まではおよそ30分の距離。丈のたかいススキ原のような草の茂る草原の中に通る道を車で上る途中、草原の向こうに昇りかけの太陽を正面に見た。蜃気楼か、もやのためか、地平線からまだほど近い位置の太陽はオレンジと金のマーブル状にぼわぼわと輪郭線を漂わせながら膨張したように大きく、それは昔、ミズラを結った縄文人が「神の恵みのありがたや~」というBGMのもとに、麦畑の中を走ってくるビール会社のCMを思い出させた。太古の太陽のエネルギーのようなものが、燦々と放たれ、あのように雄大で荘厳な太陽を見たのは、後にも先にもあれきりである。

その壮大な光景を脳裏に焼きつけ、2度目の撮影に臨む。前回は中岳火口を背景にしたが、今回は太陽の光の関係で烏帽子岳を背景にした。烏帽子岳を背景にすると、麓の池が馬の生息の足跡であるようにも思え、ちょうどよい収まり具合になったと思う。

風の威力は相変わらずで、おさまる時を見計らってシャッターを切るのだが、その間はモデルは本当に寒そうで気の毒であった。(本当にそう思うなら、次からはあたたかい衣装にしてよねっ byモデル)
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阿蘇火口へはロープウェイが2本ある。仙酔峡ロープウェイと阿蘇山ロープウェイである。1日目は阿蘇ロープウェイにそった自動車道で昇ったので、せっかくここまで来たのだからロープウェイに乗って火口まで行ってみようと、山麓を半周回ったのだが。。。。

ロープウェイののり口にたどり着く前辺りからいや~な雰囲気が。。。そう、霧がたちこめてきたのである。。。いや、記憶違いであれはガスだったかも知れない。。。とにかくロープウェイは運行停止となっていた。深くたれ込めた霧(ガス?)は、なかなか晴れそうにない。しょうがないので駅の中にあったプリクラで記念撮影をして帰途についたのであった。


宮崎県都井岬 [午]

今回のロケは2泊3日の泊まりがけである。2日目は在来馬の御崎馬で有名な都井岬へ向かう。野生馬に囲まれてのショットもいいな。。。と思ったからである。
阿蘇から都井岬へ、およそ250キロ、熊本から宮崎という同じ九州の隣県とはいえ、九州の縦半分以上の距離である。とにかく車を飛ばす。九州自動車道から宮崎自動車道へ乗り換えるころから一気に南国ムードは高まる。国道の街路樹はくだんのフェニックス。国道は一旦鹿児島を通り志布志市を通過する頃から海沿いの道となる。そして再び県境を越え、宮崎県串間市都井岬へ!ちなみにモデルはこの日、ホテルで髪の毛と化粧をある程度済ませ、助手席に座っていた。なにしろ化粧コンセプトは「炎馬」であるから、アイラインもリップの色もかなりはっきりしていた。国道で対向車のおじさんがこちらを見ながらぎょっとした顔でハンドルを切り損ないそうになった。ぶつかられなくて本当によかったが、おじさん、おどろかせてごめんね。

そして都井岬に到着。

いたいた、愛嬌のあるちょっとダックスフントをおもわせるような御崎馬が私たちを出迎えてくれた。ほぼ自然の状態で、あまり人手を加えることなく保護されているということである。私達がしばらくいる間に数頭が近づいてきたが、ある一定以上は近づきすぎることもなく、適度に距離を保っていた。彼らは見るからに温厚そうで、平和が漂っていた。
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しかし。それでは私の炎の馬にはマッチしないのである。撮影はあきらめて、貴重な在来馬との時間を楽しむことにしたのであった。

ちなみに付近に白蛇様を祭った神社があった。鳥居も簡素な感じで、構えの小さな神社である。本殿(?)では実際に白蛇様を見ることができる。

もともとこの地には大樹がうっそうとしげり、沼地には大蛇がすんでいて住民や家畜に危害を加えていたそうである。村の若者達が中心となって、大蛇退治に出かけ、燃え盛る松明を大蛇の口に投げ込んだところ、大蛇は炎のような血潮を吹き出して息絶えたそうである。その後その村で白蛇を見た人が現れ、きっと大蛇の生まれ変わりが神の使者になって現れたのだろうと噂が広がったそうである。そんな話も忘れかけられた頃、平成6年に白蛇が再び発見され、それ以来この地にてお奉りしているということである。

白蛇は,財宝の守護神である弁財天の使いであり、白蛇を用いて財を成すといわれるらしい。ちょうど去年が巳年で、白蛇をイメージした衣装であった。弁財天の使いで、財宝の守護神であるとは去年の段階では知らなかったが、偶然にも岩屋の前でとったイメージにはぴったりとハマる。巡り合わせの幸運に感謝しつつ、白蛇様を後にした。


撮影:阿蘇山麓 草千里 [午]

アトリエのある京都から阿蘇山麓までは約1000キロ。目指すは中岳火口と草千里である。ドライブ好き、サービスエリア達より大好きな私たちにとってはワクワクの行程である。なんといっても九州。高校の修学旅行で訪れたきりであるが、道添いのフェニックスの光景が思い浮かぶ。南国九州、温泉。。。

12月上旬のある日、夜中に出発、名神から中国自動車道、山陽自動車道、九州自動車道へ。宝塚インターチェンジで高速工事のため、1区間分国道を走るというハプニングはあったものの、朝日を関門海峡で迎え、昼過ぎには無事草千里が浜を横目で見ながら
阿蘇中岳火口へ。。。ついた。。。ついたが。。。

「南国九州ってどこ」

モデルが三角の目になっている。火口からは白い噴煙がもくもく。。。その煙が冬の北風にびゅうびゅうとふかれて巻きあがるように空へ昇っていく。

「あ~標高が高いとねえ、ちょっとは寒いねえ、やっぱり冬は寒いかねえ」

曖昧な笑顔でもぐもぐとくちごもるカメラマン。ちゃきちゃきと動き回り、撮影に向きそうな場所を探す。しかし、辰年の那智滝と同じ現象が起きた。火口が近くて大きすぎるのである。火口際に立ったら、背景が煙というよりは一面霧がかかったように見えてしまうのである。
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「標高が高いから寒いのかも知れないね。ちょっと戻って草千里行こう。あそこならまだちょっとあたたかいかも」

なんて、ふきっさらしの冬の草千里には望むべくもない甘い甘い期待であった。草千里と名付けられるだけあって、障害物がなにもなく、見渡す限り広々と続く草原はそれこそ観光客もおらず、馬一頭見当たらず。。。馬が食んでいただろう草地は冬枯れに黄色く。。。草千里ならぬ枯草千里。。。風はびょうびょうと。。。

「わあ、ここからだと阿蘇の煙がきれいに収まるねえ、天気もいいし、地面が馬の飼葉色って感じでいい感じ」

声を励ますカメラマン。正三角形だった目が二等辺三角形につり上がっていくモデル。

今年の衣装はこれまたノースリーブに薄手の被衣。気温は7度、風が吹き付けているので体感温度はさらに低い。

「今年はさ、パンツが温かいでしょ。ねっ」

サバイバルの撮影は続くのであった。
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衣装コンセプト/午 [午]

前述のように、私の午のイメージには炎が重なる。炎と言えば火山、火山と言えばやはり阿蘇ということで、今年のロケは片道約1000キロの阿蘇に決定。三好達治の「大阿蘇」では馬はしょうしょうと草を食んでいるが、私の「大阿蘇」では馬は炎に挑むのである。
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埴輪から出土した馬具をヒントにしたアクセサリーをメインに、スーラのサーカスにでてきそうな軽快なイメージの衣装を製作。ボディの部分が馬の顔の輪郭した切り替えになっている。馬頭観音のイメージも取り込んだつもりである。
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 サーカス スーラ オルセー美術館


馬車と牛車  [午]

西洋の王侯貴族の乗り物と言えば馬車である。
日本の王侯貴族の乗り物は牛車である。昔の日本人は馬に車を引かせることは考えなかったのか?いや、運搬用には運ばせていた。参勤交代の図などをみても、馬はかなり重たそうな荷物を背にくくりつけられている。馬に乗った人はいるが、あくまでお供の侍で、殿は駕篭である。いわゆる西洋の馬車のようなものは、明治時代までは見かけられないようである。

。。。皇室の御成婚パレードなどを見ていると馬車はお供も皆騎乗である。絵巻物などをみると牛車ではお供は徒歩で周りを囲んでいる。犬や猫ならいざしらず、馬や牛一頭飼うことは場所も飼料も手入れも人出がかかる。時代によって異なるであろうが、都の貴族の懐事情は案外慎ましかったとも言う。。。車両も木製なので、舗装道路のなかった時代では、あまり速度を出すと体中がきしみそうだから、ゆるゆると持続力のありそうな牛の方が都合が良かったのかも知れない。牛車で戦闘に出たなどというのは聞いたことがないので近距離用として使用されたのだろう。都内の移動などは距離的にもたかが知れている。長距離になると速度の出る馬のほうが便利だろうし(牛の速度も馬鹿にならないらしい、しかし牛が速度を出す時は、怒りくるって手に負えない状況になった時である。ちなみにこの暴力的な牛の速度ををうまく利用したのが倶利伽羅峠における源義経の作戦であった)、ぬかるみや凹凸の激しい山道が多かったであろう日本の昔の状況では、車をひいて、道に車輪をとられるよりも、籠や輿という人力に頼ったものの方が、小回りも利くし、動力の補充も簡易である。

馬に牛車を、牛に馬車を引かせても、引けないことはないと思うが、やっぱりシンデレラには馬の引く馬車、かぐや姫には牛のひく牛車が似合うのかな。

馬の神性 [午]

馬は宗教とも縁が深い。幼稚園、中学、高校、大学とカトリック系の学校に行った私にとっては、馬小屋で生まれた。母マリア、ヨセフ、三人の羊飼いに見守られ、後光を放つ幼子イエスの姿は、像やカードなどでよく目にしたものである。馬小屋と言えば、我が日本の聖徳太子も、太子となる前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。厩戸とは馬小屋のことである。このことからキリストと太子を結びつける因縁があるとかないとかいう説もあるようである。

いずれにせよ。馬は神性な面を濃く持つようである。
尊い動物であるということで、馬はまた神霊を祭るための奉納品とされた。しかし奉納された馬の世話が大変なことと、経済的な理由から、この生きた馬を奉納することから、木馬を、そして絵を描いた額を奉納するという過程を経たものが、今日「絵馬」という風習になって残っている。

仏教には馬頭観音という馬頭を頭上に戴いた観音様がいる。馬の守護神であり、馬は乗り物や、運搬用に使われたことから、道中安全の守り神ともされ、道端や道路の辻などに安置されている。六道のうち、畜生道を救済する観音様である。観音様にしては憤怒の形相を浮かべていらっしゃるのが多いのだが、これは憤怒の激しさで、様々な苦悩や災難を打ち砕くということらしい。観音というよりは明王の部に近い。

私的には。。。実は馬頭のキャラクターは観音様のおわす上のほうの世界だけではなく、対局の地獄にもいるのである。「馬頭鬼」といって「牛頭鬼」と共に描かれることが多く、閻魔大王に仕え、地獄に堕ちた人々を責め苛む獄卒の一人である。馬と牛はどちらも人間が最も生活における使役頻度の高い動物であるから、あの世では逆に責め苛む対象に転生させたものと思われる。「こき使った」自覚からくる自責の具現化というところだろうか。
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地獄草紙より咩声地獄 「日本の絵巻7」中央公論社

ちなみにギリシャ神話にも似たようなキャラクターがいる。ケンタウルスという、こちらは上半身人で下半身が馬という、射手座のヒーローである。こちらは、ギリシャ人が騎馬民族と戦った際に彼らを擬人化した名残であるといわれており、「こき使った自責」ではないようであるが、ダンテの「神曲」においては、しっかりと地獄の血の河で暴君を苛む獄卒の役割を果たしているので、どこか共通のルーツがあるのかもしれない。
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 富士浅間神社の木製の御神馬

日本の絵巻 (7) 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻

日本の絵巻 (7) 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻

  • 作者: 小松 茂美
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 単行本



いけずき、するすみ [午]

また小学時代の話に戻るが、「平家物語」に登場する源頼朝所有のいけずき(生食)、するすみ(磨墨)。物語自体は忘れたが、荒武者で有名な坂東武者さえ乗りこなせないこの2頭の名馬の名前だけが妙に記憶に残っている。並みいる武将が名を連ねる中で、特別に名前のついた馬がよほどめずらしかったのだろうか。または、私は関西出身なので、なんとなく源氏よりは平家びいきなので、その敵方の荒くれの坂東武者たちが乗りこなせないという奔放な2頭に爽快感を抱いていたのかも知れない。先日偶然に鎌倉の鶴岡八幡宮に行ったところ、いけずき、するすみの銘のついた、黒と褐色のペアの硯が宝物館に展示してあった。銘入りの硯がつくられるなんて、いけずき、するすみは武士に負けず劣らぬ、いや、遥かに格の高い存在だったのだろう。

余談であるが、鶴岡八幡宮の境内に源平池がある。正面の鳥居をくぐって左右にある池である。左が平家池で右が源氏池らしい。鶴岡八幡宮の境内だから、右の源氏池の方がかなり広い。中央には弁財天を祭った祠のある小島もある。比べて平家池の小さいこと。平家びいきの私はなんだか釈然としないが、この平家池は神奈川県近代美術館に面している。武家文化よりは貴族文化にイメージのつよい平家には、美術館に面するという文化的な立地がふさわしいかもしれないと納得することにした。

平家物語で馬の登場する話として、源氏の武将畠山重忠が馬を背負って降りる場面も挿絵のイメージとともに覚えている。名前はついていなかったように思う。日頃世話になっているからと、大将自ら馬を背負って崖を下りるのであるが、いくら大柄な人だったとしても、馬を背負うなんて、結構小さめの馬だったのかと思ったりした。競馬の様子を見ていると、とても騎手が馬を背負えるようには見えなかったからである。

それもそのはず。そもそも日本の在来馬は、今日私たちが見慣れている体格が良く、足の長い西洋のサラブレッド系ではなく、ずんぐりした、むしろロバに近いような品種なのである。

日本の馬は2000年程前に中国から渡ってきたといわれている。日本におけるサラブレッド型は明治以降の軍事用に改良されていったものであり、それまでの馬の姿は、在来馬と呼ばれる北海道の道産子や長野の木曽馬、宮崎の都井岬の御崎馬などに見ることが出来る。写真は御崎馬であるが、馬でもポニーを思わせるような小柄なものである。
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 都井岬の御崎馬

司馬遼太郎の「国盗り物語」で、斉藤義龍の体格が良すぎて、鎧を着込んで騎乗したところ、足が地面すれすれだった。。。ような場面があったと思うが、在来馬の体格が
大なり小なりこのようであれば、それもそうだろうな、と納得してしまう。しかし、足が細く長いため折れやすいという西洋馬に比べて、持久力と耐久力には優れていたようである。それはそうであろう、あの鎧、セットで着用すると総重量何キロになることやら。。。と思うが、ヨーロッパでの鎧も全身金属で覆われており、さらに金属製の槍だの、刀だの、楯だのを持った時には日本の鎧に負けず劣らずの重量になる、いや、もしかすると西洋の鎧の方が重くなるかも知れない。日本の鎧は基本皮だし。。。

去年パリに滞在した時のこと、7区にあるアンバリッドに行った。ここはるい14世が負傷兵のための軍事医療施設として建てたものであるが、今は軍事博物館となっている。大砲、甲冑、刀剣、銃剣、馬具など、コレクションがずらりと並びぶなかに、懐かしいものが目に入った。日本の鎧である。当世具足の類である。日本の鎧は大航海時代、結構海外に流れたようで、貴族の肖像画に小道具として描かれていたりもする。
ちなみに西洋の鎧も日本に渡ってきている。徳川家康所蔵の南蛮鎧などは好例である。

さて、そのうち、等身大の騎士が騎乗している像が並ぶ展示室へと続く。背の高い、がっしりしたサラブレッド種に堂々と騎乗する隙のない金属鎧の騎士は堂々として恰好いい。恰好いいが、こんなに身体を覆い尽くして実戦になるのだろうか。。。とは思う。さて、その中に我が日本の鎧を着用した像もあった。原寸大。。。馬もしっかり原寸大なのである。。。そんなに丁寧に再現してくれなくても、せっかくパリに渡ってきたんだから日本の鎧武者もサラブレッドに颯爽と乗せてやってくれ~と心の叫びをのこしながら。。。。
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大河ドラマ「風林火山」のオープニングで、馬が疾走する画面があったが、もしタイムスリップして実際の武田騎馬隊を見ることができたら。。。ずいぶん印象が違うことだろう。

大河ドラマ、武士、馬とくれば、「功名が辻」。妻、千代のへそくりで名馬を購入し、一躍出世の糸口をつかんだ山内一豊の話も武士と馬の密接な関わりを示すものである。馬は財産であり、ステイタスであった。現代で言えば乗用車と戦車の混ぜたようなものだろう。馬の能力は戦場での働きを大きく左右したのである。


午・馬のイメージ   [午]

1. 天の赤馬
1. 大阿蘇



小学時代の記憶は人生に大きな轍を残すものである。あらゆる出来事ー行動なり、読書なりーは、無意識のうちに記憶の底辺にしっかりと根付き、その後の人生において基盤を成すといっても過言ではないとだろうか。少なくとも私にとってはそうである。小学校時代にくり返し熟読し、どの辺りのページにどういう話、言葉がのっているかも覚えたくらいに読んだ図書、小学生向けに簡易化されたものではあっても、里見八犬伝や信長記、平家物語、あるいは阿久根治子著のつる姫などは、何十年たった今も記憶の中に鮮やかに存在し、現在の生活におけるすべてのものは、これら小学校の読書の蓄積の展開したものであるといってもいい。ちなみにこの「つる姫」を、私は小学校の図書室で読んだのだが、あまりに気に入ったので、家で購入してもらおうと思ったところ、当時絶版になっていた。あきらめの悪い私はその後古本屋を捜しまくり、ようやく手にした。このたび、この項を書くにあたって検索したところ、なんと復刻されたという嬉しいニュース。戦国時代、瀬戸内海の大三島を拠点とする三島水軍の惣領の娘、つる姫が、時代の波に翻弄され、女の身ながら大内水軍を率いて戦に臨んで行くという史実をもとにした話。実際に、つる姫着用といわれる女鎧が大三島の神社に残っている。

興味のある方はぜひ読んでいただきたいと思う。「つる姫」 阿久根治子著 瀬川康夫画 福音館書店。 児童文学ではあるが、本当の児童文学というのはただ可愛らしい作品を指すのではなく、大人の鑑賞にも堪えうるものでなければならないということを納得させてくれる作品である。

さて、大分話が馬からそれて行ってしまったが。。。

斉藤隆介著 滝平次郎画の「天の赤馬」も、そういう作品の一つである。源という少年の成長を描く、東北の隠し銀山を舞台にした百姓一揆の物語。銀山の炉の炎が山肌に映し出す火影が天に向かっていななく馬のように見えるという光景が、滝平次郎の影絵の迫力とともに刻みついて離れない。だから、私のイメージでは馬は常に火炎とともにある。

偶然ながら、馬は干支では午、方位は南、色は朱、季節は夏で時刻は正午を司る。エネルギーそのものの象徴であり、まさに炎を彷彿とさせる。


三好達治の「大阿蘇」という詩がある。馬と言えば炎を連想する私にとって、大阿蘇を背景に、雨に濡れそぼりながら草を食む馬の姿は斬新であった。
「雨がしょうしょうと降っている」と音楽のように繰り返されるフレーズは、とても穏やかで、もくもくと口を動かしているのが馬であることが新鮮だったのである。草を食うなら、牛の方がイメージが強い。どちらかといえば競馬でもおなじみなように、颯爽と走る姿の方が断然恰好がいい。たてがみをなびかせて草原を走る野生馬もまた然りである。



天の赤馬 (1977年) (創作児童文学)

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  • 作者: 斎藤 隆介
  • 出版社/メーカー: 岩崎書店
  • 発売日: 1977/12
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つる姫 (福音館文庫)

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  • 作者: 阿久根 治子
  • 出版社/メーカー: 福音館書店
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 単行本



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